玉祖神社
あいおい苑のすぐそばに周防一宮として有名な玉祖神社がある。氏神様として、また子供の頃からの遊び場として親しんできた。僕の生まれた家の周りは内田という家ばかり。1学年1クラスの小さな玉祖小学校に通っていたが、同級生も38人中5人が内田でそのうち4人はすぐ近所だった。子供のころ内田家の直系は100代以上続いていると聞いたことがある。なにか玉祖神社と関係があるのかなと思っていたらネットでこんなものを見つけた。
玉祖神社例祭特殊御供
例祭当日の早朝、三足の土鼎(どてい・なべ)二個を以って、白飯(白米)黒飯(玄 米)を炊き、これをHIRAKAに半分ずつ盛合せて神饌に献供する。
これは神功皇后御祈願の時より始るといい、沢田長(さわたのおさ)(佐野焼陶工の 始祖といい、防府市大字佐野の中に沢田の地名を残す)の子孫が代々この祭器を毎年 調進する古例があり、昭和三十年頃まで続いたが(直系)が中絶したため古器にて炊いていたが 、昭和五十七年九月、佐野焼保存会の願意により毎年の調進が行なわれるようになっ た。
風土注進案に「昔仲哀天皇 神功皇后 筑紫を征伐し給ふ時、当所に御船を寄せられ 、澤田の長(澤田中頃土田と称し今ハ内田と申候、当時弥三郎家なり)に命じて高田 の土(高田は姫山の麓なり)を以て三足の土鍋を作り御供を炊き、大HIRAKAに盛り 玉屋の明神に備へて軍の吉凶をトひ祭り給ふ例にて当天保十二年丑年迄千六百四拾壱 年之間闕如なく毎年八月一ノ宮大祭会之節澤田家筋より鍋を備奉候・・・・・」とあ る。
この土鍋は素焼製で、往古当地方の日常品であったと推測できる。これらの破片が弥 生式土器、瓮等の破片と共に等地方一帯から出土する。即ち玉祖神社特殊の祭器では なく、神功皇后は祈願のため、得に新調を命じられたのである。
尚、社伝では佐野若宮に鎮座する若宮社は、沢田の長の子孫が玉祖命の御分霊を祀り 、壺神様として崇め奉り、焼物業の加護を祈念したという。
ちなみに僕が今住んでいるところは防府市大字佐野放光沢田というところにあり、代々佐野焼を船に乗せ商うことを生業としていた。子供のころに神社のお下がりものといって平べったい三角(?記憶が定かでない)のような御餅のようななんだかわからない、ほんとうに味も何もないわけのわからないものをちぎって食べさせられた記憶がある。例祭と関係があるのかどうかはわからない。
へぇ…(・o・)
勉強になりました!!
でも内田くん内田さんだらけで先生も大変でしたね(笑)
昨日たまのやの利用者さんと参拝させて頂きました。
といっても…
ボランティアで無理矢理ついて行ったんですが…
ノンちゃんが天然記念物の黒かしわに吠えまくって威嚇してて笑えましたよ(^-^)